歴史好き必見!外構・エクステリアは2000年前からある!?現代と共通する役割とは
外構工事、エクステリア工事のその言葉の定義は置いておくとして、住宅自体に比べて優先度が後回しになりがちな外構工事、エクステリア工事。
外構・エクステリアの隠れた重要性をもっと知ってもらいたいと考えた時に、その歴史を辿ってみたいと思いました。
歴史を知ることで、自分の外構エクステリアの目的、志向がはっきりする手掛かりになればと思います。
外構エクステリアは外構え
エクステリアというのは英語ですので、元々日本で使われていたのは「外構」です。
それも「がいこう」ではなく「外構え(とがまえ・そとがまえ)」と言われていました。
家内部ではなく、外の構え。
つまり門、垣、塀などの配置や構造。またその物自体を指します。
話をシンプルにするために外構とは家の外にある門、垣、塀を指すことにします。
今回の記事では庭には触れません。
一般庶民には外構えはなかった
昔の人たちの住居の外構えはどうなっていたのか、その歴史を調べてみたのですが、いきなり結論から言うと日本国民の大多数の一般庶民には外構えはありませんでした。
この9割の平民の家にはほぼ外構えがありません。
この一般住宅にはつい最近まで外構がなかったことが、住宅業界において外構・エクステリアの位置づけが低く置かれてしまっている最大の要因かもしれません。
農民の住居はいきなり畑、町人は長屋住まい
日本はつい100年ほど前まで実に国民の85%が農民の国でした。(漁師や猟師もこの中に含まれます)
さらに自分の土地を耕してる本百姓と、いわゆる小作人で土地を地主から借りて生活している水呑百姓とに別れ、その比率はおよそ7:3と言われています。
ではこのメインの本百姓の家がどうだったかというと、自分の畑の前に家があるという状態です。
やはり見る限り外構えがありません。
工商の町人は、時代劇を見ていたらわかると思いますが、みな長屋に住んでいます。
今で言うタウンハウスです。
そしてもちろん外構えはありません。
外構のモチーフは武家屋敷
では明治時代以降の一般住宅は何をモチーフに外構を作っていったのでしょうか?
ずばりそれは武家屋敷です。
武士の住まいには外構えが作られていました。
そしてその武家屋敷自体の外構えは、城をモチーフとして作られていきました。
武家屋敷の外構モチーフは城
城は当然戦のために敵からの攻撃を防御しやすいように外構えを発展させてきました。
城の外構えの基本は、塀と堀です。
敵の進行を食い止める堀は、現在の皇居などのように水がはってある水堀は近世になってからで、長らくは水ははられていないただ土を掘っだけのものが主流です。
V字に掘る薬研(やげん)掘などその掘り方も数種類あります。
外構工事の元祖は環濠(かんごう)集落
明治時代以降の一般住宅への外構工事の広がりのモチーフとなったものは武家屋敷。
そしてその武家屋敷が外構のお手本としていたのは城。
そして城のルーツと言われているのが一気に弥生時代まで遡りますが「環濠集落」です。
環濠集落とはその名の通り、環のように集落全体を土で作った濠で囲っている集落の事です。
代表的な環濠集落として有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡には再現した公園があります。
この濠、その上に建てられた柵、そして物見やぐら。
これらはまさに外構工事の元祖と言えるのではないでしょうか?
ただ実際にはこれは家の外構ではなく、集落の外構ですので厳密には違います。
しかしこれが城に使われるようになり、城をモチーフとして武家屋敷の外構が作られるようになっていきます。
紀元前5世紀から700年続いたといわれる吉野ヶ里遺跡が長く続いたのは周りを濠で囲い敵が攻めにくかった環境だったからかもしれません。
縄文時代の集落には外構工事は見られない
縄文時代の集落の遺跡として有名な青森県の三内丸山遺跡。
その復元図を見ても、あくまで集落として寄り集まって暮らしてはいるものの、吉野ヶ里遺跡で見られるような柵や土塁などは見当たりません。
江戸時代の農村の風景と非常に似通っています。
なぜ環濠集落ができたのか?
最大の要因は稲作の伝来と言われています。
これまでの狩猟・採集生活から稲作に移行したことにより、食料としての米を貯蓄するということができるようになりました。
貯蓄するための高床式倉庫を中学の歴史の時に覚えたことと思います。
稲作が盛んになり、集落によって収穫の差、貧富の差が生まれるようになり、当初はおそらく害獣から守るためであったと思われますが、それがいずれ別集落からの強奪を防ぐ。
つまり防衛のために濠や柵が作られていったと考えられています。
武家屋敷以外の外構
結局の特権階級の家にだけ外構えが作られていきました。
武士以外でいくと、貴族の屋敷は、平民に中を覗かれないように、そして蓄えた富を取られないように防犯の意味で、そして周囲に権勢を誇るように外構えが作られてきました。
平安時代に生まれた寝殿造は、歴史の授業で習ったのを思い出すのではないでしょうか?
神社仏閣ももちろん外構えがありますが、これは通常の場所と聖域を隔てる境界としての意味合いが強いです。
農民にもあった外構え
神社仏閣は聖域との境界としての意味合い、貴族の屋敷は防犯もありますが権勢を誇るため、しかし武士の家は違います。
しっかりと塀、門が作られています。
お城も違います。しっかりと塀、門、そして垣が作られています。
外敵から身を守るためという明確な理由からです。
そして江戸時代でも平民に外構はなかったと言いましたが、農民の中でもごく一部外構を持った家に住んでいた人達がいます。
それは水呑百姓(小作人)を抱える地主の家です。
一定の富を得た人のみ、外構えを作るようになるようです。
これは防犯の意味が大きかったのだと思います。
やはり外敵に怯えるほど外構を作っていくという流れが見て取れます。
外構の目的は外敵への備え
このように見てくると、外構というのは当初は外敵への備えであったことがよくわかります。
江戸時代になりようやく戦のない世になった時の農村の風景が、縄文時代の集落と似ているのはとても印象的です。
そして現在の外構工事の流行は、塀で囲んでクローズな空間を作るのではない、オープン外構です。
ジャパンアズナンバーワンと言われて世界ナンバー1の経済大国にのし上がった頃に比べると勢いのなくなった日本を表しているとも取れますし、泥棒などが少ない安全な日本の現れとも取れます。
自分達の家の外構は何を目的とするのかを考えるところから計画を建てると、また少し変わった見え方ができるかもしれません。